オルタナティブ教育と安楽死と日本
Twitterで目にした言葉が頭から離れない。
私は医者ですが、安楽死自体には実は反対ではない。が、日本のような人権も個人の尊厳もへったくれもない社会でやるようなもんではない。あれは、個人の権利の尊重をとことん突き詰めた先にある、究極の自己決定の一つであって、未開社会でやってはならないと断言する。
— 思想犯スネゲマン@マンゴー研修 (@sunegebohbohman) June 2, 2019
「安楽死には賛成だけど、日本のように人権も個人の尊厳も理解されていない国で安楽死を導入したらとんでもない事になる。(弱者が自ら死を選択されられる)日本での安楽死は反対。」
ということかな。悲しいけど私もそう思う。
頭の中で「安楽死」のワードを「民主主義」「国民主権」に入れ替えたら?
身近なところでは「オルタナティブ教育」に入れ替えてみたら?
「オルタナティブ教育には賛成だけど、日本のような人権もへったくれも無い国で、オルタナティブ教育を導入したら、、、」
日本の場合、公教育以外の選択肢を増やす事が、諸外国と全く違う結果をもたらすのではと心配になる。
自己責任の名のもとに、教育に対する国家の責任回避につながらないだろうか。
公教育への更なる予算削減にならないだろうか。
それを目的に、すでにオルタナティブ教育の政治利用が始まっているのではないか。
人権理解の進んでないこの国で、その状況を再生産させているのは公教育。
だけどその公教育こそが、貧困や機能不全家庭など、困難な状況にある子どもの教育を保証できる唯一の手段になっている。
自分の子どもが不登校でも関係ない。公教育は守りたい。
主権者の多くが、人権や民主主義を理解する機会を奪われ、弱い立場になると「自らを排除する」という暴力的な思考を持たされている。
当然それを他者にも求める。
そんな中で、どうすれば公教育を守れるのか。
公教育による子どもや教員への人権侵害をやめさせられるんだろう。
富士山の頂上に行きたいのに、樹海で立ちすくむ。