見守る人、介入する人
不登校デビューから2ヶ月がたった三女。
クラスの活動には参加しないけれど、通級や別室での図工には楽しく通っています。(給食も行っているので、厳密には不登校にカウントされないかも。)
今日も別室で図工をしたのですが、そこで少し考えてしまう出来事がありました。
「自由に作ってごらん」という図工の先生
「図工の先生とつながろう!」でご紹介した先生。
図工の先生は、子ども達の中から湧き出る発想を大事にしています。環境と材料を整えたら、見守りとフォローに徹している。
図工の先生の元だと、じっくりのびのびと工作ができます。
私もやりたくなっちゃう。
完成品を目指して介入する担任の先生
今日の図工は木材を切ったあと、それを積み木のように自由に組み立てて作品にする、という取り組みでした。
三女は新幹線と背景の家を作っていました。とっても集中して。
担任の先生が時々様子を見に来てくれるのですが、新幹線を見るなり
「線路があるといいね」と言って線路になりそうな材料を次々と渡します。
「トンネルがあるといいな」と言ってトンネルになりそうな材料を探します。
三女が木を切ろうとしたら、「やってあげる」と言って切りはじめます。
もちろん「切ってください」と頼んだわけではなく。
そして切った木を渡すときに「こういう時はありがとう、って言うんだよ」と注意していました。
うーん。・・・逃げたい。
私が見守ってるから来なくていいのに・・・と思ってしまいました。
担任の先生の価値観では
「完成品に価値がある」「質の高い作品を作ることが良い事」「子どもに足りない能力を補ってあげる。助けてあげる」「助けてもらったことに対してはお礼を言うべき」「お礼を言わせる必要がある」
という事なのかな。
(今までこんな関わりをする先生に会った事がないので、この記事を読んで「だから学校の先生は!」と思わないでくださいねー。)
うまく担任の先生が来なくなるような言い回しは無いか、ちょっと悩み中です。
まぁ、こんな関わりされたら登校を拒否したくなるな。
させる、やらせる、は快楽で依存性がある。
自分もこういう発想を持っていたので、非難したところで解決にならないのはわかります。
やめてくださいと言ったところで、「やらせる」「やらされる」だけが動機になっている世界観を変えることはできない。
こういう発想だと、劣等感と優越感を行ったり来たり。その都度「快・不快」のスイッチが入って、この刺激なしではもういられないんじゃないかな。
つまり依存症。
私も子どもに「やらせる」のが当たり前に思っていた時があるので、脳がこの快楽を覚えているんです。
麻薬やアルコール、ギャンブル等の依存症と同じです。
一度気持ち良さを知ってしまったら、それを求める気持ちと戦い続けないといけないんです。死ぬその瞬間まで。
私は子ども達と健全な関係を築きたい。
共依存関係を作りたくない。
先生の介入の仕方が、以前の自分を見るようでした。
これを続けていたらまともな人間関係は無理だわ。
だから私は支配と依存の関係を断ち切るべく、死ぬ瞬間まで「支配欲」と戦いたいなと、決意を新たにしました。
「自由に作ってごらん」
これでいいじゃん!
私も自分の人生の中で、「大好きな人たちと、お互いの存在が幸せになる関係」作りを楽しんでます。