AI vs. 教科書が読めない子どもたち4 「暗記コミュ力」の功罪と「読解コミュ力」の必要性
今回もひきつづき、「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」2018/2/2 新井 紀子 (著)について。
前回の記事では、
「暗記力に基づくコミュニケーション能力」(暗記コミュ力)
- 「理解」を伴わない
- 相手をカテゴライズする。(人種・年齢・性別・地位など)
- カテゴリーに合わせてフレームを当てはめる
- フレーム通りの対応をする
暗記力コミュ力は、誰もが基本的なコミュニケーションの土台としてやっていること。
そこからさらに他者への理解(読解コミュ力)に発展させる人と、させずに暗記コミュ力だけで生きる人がいる。
そこには、幼少期の身近な大人の対応の違いが原因としてあるのでは?
という事を書きました。
「フレームだけのコミュニケーション」がハラスメントを生む
以前の記事で、
「クニ社会は強固な差別を必要とする」ということを書きました。
生まれ持った人種や性別をもとに差別し、人に型通りの行動をとらせることで社会を維持している、という内容です。
今の社会は「フレームによるコミュニケーション」を強化しやすい面があるのかもしれません。
相手への理解を欠いたまま、カテゴリーに分けて型通りの行動を要求する。
どんなに優しく誘導したとしても、それは支配になる。
型通りの、思い通りの行動をさせるための強制的なアプローチがハラスメントです。
差別が空気のように蔓延している社会では、ハラスメントを受ける側も違和感を感じない。
セクシャルハラスメント、モラルハラスメント、パワーハラスメント、などの言葉が浸透したのは、それだけ差別に対する違和感を、多くの人が持ち始めたということ。
フレーム外の行動をする人間への不快感
フレームだけでコミュニケーションを取る人は、相手の内面についての関心は無いわけです。
相手の内面にも「このフレームの人間だから、こう思っているに違いない」と、ストックしている型を当てはめます。
「相手がフレームに合った行動をとる事」が前提でコミュニケーションをとっています。
だから相手がフレームの枠外、予想外の行動をとると不快感を持つ。
「女のくせに」
「男のくせに」
「子どものくせに」
「のび太のくせに」
「社長の立場でありながら」などなど。
良い行動でも、立場を超えたものであれば批判する。
表立って批判しなくても、周りの人をカテゴリーに当てはまる行動へと誘導する。
「読解力を基盤とするコミュニケーション能力」が求められる時代
先ほど引用した、著者新井 紀子 さんの言葉が印象的でした。
常識の欠如した人が増えてきているのは嘆かわしいことですが、大半の人が持ち合わせていなければ、それはもはや常識とは言いません
ある常識を、大半の人が持ち合わせなくなって、常識じゃなくなる。
そうしたことは、これからも増えていくでしょう。
共有できる常識が少なくなっている中、フレームではなく理解によるコミュニケーションをとれるようになっていく必要があります。
読解力を基盤とするコミュニケーション能力、「読解コミュ力」です。
「読解コミュ力」を育てる
「周りがダメだと言っているから」差別しないのではなく、自分の目の前にいる相手を理解する、読解する。
生身の一人の人間を理解する努力をすれば、一人ひとりが実に奥深く、どこまでも予想不可能な興味深い存在だとわかる。
社会的なカテゴリーなんて薄っぺらいものに当てはめることなど、もったいなくてできなくなる。
そして自分自身も。
そこまでの深い人間理解ができる人間を、どうやったら育てられるのか。
道徳教育はフレームコミュニケーションの暗記
私は道徳教育は、フレーム教育だと思っています。
差別が批判されるようになると、カテゴリーによる行動の抑制が通じなくなる。
だから今度は「考え方」によって、行動の抑制を徹底したいのではないかと思っています。
それは「暗記コミュ力」で生きる人たちにとってのみ、生きやすい世の中です。
差別やハラスメントが批判され、個人の尊重を求める声が高まるにつれ、「暗記コミュ力」で生きる人たちは、人を型にはめようと必死になるでしょう。
そうした人たちの内面も含めて読解できる力を持たないと、簡単に型にはまってフレーム外の人間を批判するようになってしまう。
美しい言葉の裏を読めるようにならないと、本当にマズいことになると思っています。