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性差別をどう伝える?① 社会的カテゴリーの上に築かれたアイデンティティはもろい

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昨日はたまたま、次女が受けた道徳の授業や、知人との会話など、性差別について話題になる事が多い日でした。

 

相撲の土俵問題※が道徳の授業で取り上げられて「女だから」「男だから」はダメだよね、という話になったそうです。

※2018年4月土俵で倒れた人を救命処置をしていた女性に対し、土俵から降りるように指示があり、相撲協会に非難の声が上がった

 

(私は以前から道徳の授業に強い懸念を感じていましたが、それが現実になりつつあります。それは別の機会に書きたいと考えています。)

 

性差別の問題の根深さを実感したこともあり、今回は差別について取り上げたいと思います。

 

男女差別「加害者:被害者=男性:女性=1:1」じゃない

 

性差別について語ろうとすると、男性VS女性、というような構図になりがちです。

そうすると1対1で議論できそうですが、そうはならない。

 

また、こちらの記事に書いたように、加害者=男性・被害者=女性、という事でもない。 

構図として男性優位な社会ではありますが、それを良しとして人生の基盤にしている女性も多い。

だから議論の対立軸の一方は「差別を肯定する人全て」です。

 

「差別の無い社会は理想だよね。それが理想論。素晴らしい。だけど現実はそうじゃない。だからみんな現実に即してやっていくしかないでしょ」という人も、差別を肯定する人に含まれます。

言っている事は差別反対に聞こえても、実際は意見を持たず多数派についているだけ。

差別支持が多い間は、なんだかんだ言って支持にまわります。

 

 

差別の被害者は、「選択肢がない人、自分で選べない人」です。だからその多くは声を上げることができない。

子どもの場合、被害にあっている自覚も持てずにいる事が多い。

 

また、差別が無くなって欲しいと思っていても、周りの反応をうかがって声を上げられない場合も多い。

「被差別者が主張する」こと自体に不快感を持たれるからです。これは性別によらず、障害者などのあらゆるマイノリティーが声を上げると不快感を持たれます。

 

結果、差別を無くそうと声に出して訴える人の数は、圧倒的に少数になります。

 

 

差別とは?他人をカテゴリーにはめて対応を変えたり、他人にカテゴリーに基づいた行動を要求する事


※ちり脳内勝手Wikipediaより

 

ごくごく小さな例えですが、

「女の子なのに力が強いね」

「男の子なのに気が利くね」

などの誉め言葉。私が言われたら気持ちよく聞けないんですよね。

 

「〇〇なのに」が引っかかる。「力が強いね」「気が利くね」だったら嬉しい。

わざわざカテゴリーに当てはめることで「あなたの位置はここね」と示されるようで嫌な気持ちになるんですよね。

みなさんはどうでしょうか?

 

「女の子なのに、という言い方は嫌な気持ちになるからやめてほしい」と言っても

「褒めているんだから問題ない。見下しているわけじゃない。そんなちょっとした事でもダメなら、何も言えなくなる。」

と返す人、けっこういませんか?

私は先日、このままの言葉を言う人を見ました。しかも教育分野で活動しようとする人が。

 

「やめて」という相手の意思を知ってもなお、「大げさにするな」と言ってやめようとしない。

普通に考えるとおかしな事ですよね。

 

そこに悪気は無く、性差別を当たり前にしてしまっている場合も多いようです。

悪意が無いから、何がいけないのかもわからないようで、こちらが拒否をすると、驚いて怒り出すこともあります。

悪気が無ければ良いとさえ思っている。

 

参考記事「フレームによるコミュニケーション」

 

 

「差別をやめて」は考えの押し付けか?

 

「性差別をやめて。個人をカテゴリーに分けて特定の行動を要求しないで」という求めに対し、

「それはあなたの考え。自分とは違う。考えを押し付けないで。」と返事が来たことがあります。

いや、押し付けないでと頼んでいるのはこっちだから!

 

「差別をやめて」というのは、考えの押し付けでしょうか?

では「暴力をやめて」というのも、考えの押し付け?

 

 

個人が自分だけで「らしさ」を追求するのはOK。他人に「らしさ」を求めたらNG。

 

私は「差別をやめて」というのは考えの押し付けではないと思います。

(・・・なんて事を改めて書かないといけないほどに、差別の問題は根深いです。)

 

個人の多様性を尊重するために、他人の思想・行動を、お互いに支配したり介入してはいけない、それが前提だからです。

「押し付けないで」を守るためのルールだからです。

 

個人として何を嗜好しても、人を傷つけない限りはいい。

自分のイメージする男らしさでも女らしさでも、追求すればいい。それも素敵なことだと思う。

 

ただ他人をカテゴリーに分けて、他人の行動に介入しないでって言いたいだけ。

押し付けてほしくなければ、押し付けないでね、ってだけ。

 

お互いの行動に干渉しない。

提案はしても、それを採用するかどうかは本人が決めれば良いんです。

 

繰り返しますが、「差別をやめて」は「暴力をやめて」と同じ。

精神的な暴力なんです。

だけど、DV加害者が無自覚なのと同じで、無邪気に差別する人も無自覚です。

相手の痛みを想像できない。本当に根深い問題だと思います。

 

 

社会的カテゴリーの上に自分のアイデンティティを築いている人に対して、「差別するな」と言っても無理

 

これは無理ですね。

自分自身を個として認識したことが無い、性別や年齢、人種、国籍、学歴、職業、立場、などが自分自身や他人を構成している、と思っている人に「差別をやめろ」と言っても無理。

もし私だったら、自分の存在が無になるような恐怖を覚える。

残酷でさえあります。

 

私だって、自分が自分として認識できる土台を壊されたら、めちゃくちゃ辛い。というか受け入れられない。

自分の人生をかけて抵抗します。

 

 

「〇〇らしく」生きてて大丈夫?

 

この変化の時代、人ひとりが100年生きると言われる時代に、社会的カテゴリーなんて一生の中でどう変化するかわからない。

社会的カテゴリーをアイデンティティの土台にしたら非常にマズいです。

 

人間が長寿になり、世界の変化のスピードが上がる。

これまで拠り所にしていた価値観が根元からひっくり返されるという事が、人生の中で起きやすくなっているんだと思います。

少なくとも私は娘たちに「女らしく」生きろとは言えない。

 

じゃあどうすればいいのか?

次回に続きます。「性差別をどう伝える?② 湧き上がる違和感と向き合おう」

 

過去記事

男女差別を再生産する「隠れたカリキュラム」について

土俵問題と教育者の対応について

カテゴリー別の、フレームだけによるコミュニケーションがハラスメントを生む