Educational Buffet!

学びをえらぶ 自分で決める 環境をデザインする 家庭ベースの教育ブッフェ

私が公教育に未練を持たないいくつかの理由その1

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今回は、学校のあり方についてがテーマです。

 

先生個人ではなくて、「学校」という体制についての問題提起と、それを間接的に支持し続けている、自分も含めた大人への問題提起として書きました。

 

偉そうに言えた義理ではないんですが、自省と、次の世代に少しでも良いものを伝えられたらという願いも込めて。

 

学校がゴールじゃなくなった


以前の記事で書いたとおり、私は長女の起立性調節障害がきっかけで、親子関係や学校について考えを大きく見直しました。

educational-buffet.hatenablog.com

 

私は、「子どもが自分で決めること」を侵害してはいけないという事を、この時ようやく学びました。

 

 

ところが学校の活動を見ると、先生個人が子どもの自己決定を尊重していたとしても、体制としてはそうなっていない事に気付きました。

 

それまで「当たり前」として受け止めていた学校の活動に、大きな疑問を持つようになったんです。

 

 

それは子どもの自分で決める力を奪わないか?

そして、それは連帯責任と相互監視の意識を植え付けるだけじゃないのか?

体制に組み込まれた時に、子ども達の「個」尊重されないのでは?

 

そう思うほどに、学校システムに対する不安要素が大きかったのです。

そうして学校はゴールではなく、社会にいくつもある「教育資源」の一つに過ぎないと考えるようになりました。

 

そして「数ある教育資源を、その都度組み合わせて子ども達の環境を作っていけば良い」という結論になりました。

ブログタイトルにもなった、教育ブッフェ「Educational Buffet」です。

 

もちろん、先生個人については、小学校でも中学校でも先生たちの頑張りとチーム力に何度も助けられ、先生たちは子どもの目線で考えて最善を尽くしてくれました。

とても信頼しています。

 

 

「隠れたカリキュラム」ジェンダー問題の再生産をやめよう


小学校では学校は「無理に行かなくても良いところ」でした。

だけど中学校の光景があまりに軍隊的で、個人を尊重しない姿勢を見て、「(無警戒に)行ってはいけないところ」に変わってしまいました。

 

先生個人ではなく「学校」という組織で見た時、

昔から変わらない体制に疑問を持たず、その体制に適応した結果どうなるか、という視点が抜けてしまっていると思いました。

 

小学校と中学校の大きな違いはいろいろありますが、入学式でまず驚かされたのが「男女の区分け」です。

全く必要の無い場面でも「男女」で分けることが、ごく自然に行われていました。「隠れたカリキュラム」というやつです。

私の時代と全く変わらない・・・。

 

 

「隠れたカリキュラム」って何?

 

隠れたカリキュラム-Wikipedia

学校のフォーマルなカリキュラムの中にはない、知識、行動の様式や性向、意識やメンタリティが、意図しないままに教師や仲間の生徒たちから、教えられていくといったものをいう。

具体的にはこちら

隠れたカリキュラムって、なに?~学校は平等な場なのでしょうか~「もうやっこ」HPより

 

小さなことの積み重ねが、

子どもの意識を「個人としての私」から「男(女)というカテゴリーの中の私」に変えて行動を制限するようになっていきます。

そしてそれを他者にも要求するようになる。

 

長女と中学校の関係

 

入学式を見た私は、慌てて長女に買ったばかりの堀江貴文さんの著書「すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論~」を渡しました。

 

だけど学校が楽しくて仕方ない長女は、ルンルンで隠れたカリキュラムを受け続けています。まいったな・・・。

 

その後、運動会の行進練習で体調を崩した長女は「学校じゃなくてホームスクーリングで勉強する」と決め、1年間はホームスクリングで過ごしました。

「ホームスクーリングにする」と言われた時点で、正直ホッしてしまいました。

 

 

今現在、長女は学校に戻って中学生生活を楽しんでいます。

 

学校に戻ってすぐのこと、「回れ右」の練習をして帰ってきた長女は「こういう軍隊っぽいところも楽しむ事にしたよ」と言ってました。

長女には隠れたカリキュラムの事を説明して「(学校とは)ほどほどの距離で付き合いなよ」と伝えています。

 

 

今の子ども世代が、ともに問題解決を迫られる未来がやってくる


これって、自分の子どもだけの問題じゃないですよね。

子ども達には、同世代と共に生きる未来が待っているんです。

問題解決を考える前に、性別によって立ち位置を測るような、そんな無駄なことやってるゆとりなんて無い未来が。

 

彼らの足を引っ張るのはやめて欲しい。

 

 

学校は原因ではなく結果


これは先生個人に原因があるわけじゃなくて、私たちの社会のあり方の反映なんですよね。

このようなあり方を評価する親御さんもまだ多いし、そうじゃない人も無関心の中で間接的に支持をし続けてしまっている。

 

学校の体制への批判は、そのまま自分達に向かっています。

学校ダメじゃん、先生ダメじゃん、って事じゃなくて自分事です。

子ども達にはそこも含めて伝えて、先生個人がどれだけ努力しているかも知ってもらえるようにしています。

 

 

無駄とわかっているのに自治体に疑問を投げかけてみた


どうせ何も伝わらないだろうと思って放っておこうかと思ったんですが、それも何だかなと思い直して自治体に問い合わせを入れました。

 

結果、やっぱり何も伝わりませんでした。

 

簡単にまとめると、

私からの

「男女の区分けが不必要に多すぎるよね。

これと同じことを人種別にやったら相当ヤバイってわかるでしょ?

男女でもダメだよね。

この自治体の学校ってユネスコスクールだよね?相応しくないんじゃない?」

 

という質問に対して、

「各中学校の学校経営方針に基づき、規定されていると聞いております。」

「教育活動が円滑に進められるように規定しているとも聞いております。」

「中学校では、便宜上、男女別名簿を活用していると聞いております。」

「その上で、男女が互いの違いを認めつつ、個人として尊重される男女平等教育の一層の推進を教育委員会に指示しました。」

 

というすれ違いの回答でした。

ユネスコスクールって、何の価値があるんですかね?

 

長くて御免!自治体とのやりとり全文


とりあえず、一年前に自治体に送ったメールとその回答を全文(自治体名や学校名のところだけ削除して)掲載してみます。
気が向いた方は読んでみてください。
長いし、自分でも読みにくい文章だと思うので、無理なさらず。

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件名:中学校における男女区別への取り組みのお願い

四月、中学校の入学式に参加して驚きました。

出席番号が男子の次に女子となっており、男子から順番に入場すると体育館の右側に男子、左側に女子と半分に分かれて着席したからです。

 

小学校では、児童が普段利用する出席番号は男女の区別をしておらず、性別による区分けは最低限にとどめていました。

性別を根拠とした役割分担や順番決めについてもゼロまたはゼロを目指した姿勢を感じていました。

小学校は児童の性別に関わらず「さん」付けで呼ぶことを(先生が児童を呼ぶときも)徹底しており、性だけでなく、ともすれば威圧的強制的な一方通行の関係に陥りかねない先生の立場についても意識化する努力をされているようでした。

ユネスコスクールの数少ない加盟校の中に、自治体の公立校が多く登録されているので、こうした取り組みは自治体の教育方針と思っていました。

ユネスコスクールや小学校の取り組みから、自治体の教育に対する信頼がありましたので、それらとは全く違った中学校の入学式の光景に衝撃を受けました。

以下、主に疑問に感じたことをお伝えします。

・入学式では男女に分かれて着席する。

・出席番号は男子→女子の順。

・連絡網は上に男子のグループ、下に女子のグループ

・制服(これ自体も議論の余地があると思いますが)の靴下について男女別のルールを設定する。

男子…黒紺茶白グレー系の無地のもの

女子…白のソックスかハイソックス。黒・肌色のストッキング

(履いていただければ理由がわかると思いますがストッキングを選択する生徒はほとんどなく、女子だけが白一色に指定され、形もくるぶしが出ないものを指定されています。)

・給食当番が男女に分かれ、交代で手洗いや食器準備にあたる体制。

(重いものがあるなどの理由があるのかもしれませんが、男女別にすることで解決させるのではなく、重いものを小分けにするなど別の方法で解決できると思います。)

大したことではないと思う人も未だに多いでしょうが、これを男女ではなく人種に置き換えて想像してみれば、事の異常さは明らかです。

日本人は右、外国人は左などとできるでしょうか。外国人は白い靴下のみなどと規定したらどうでしょうか。

たった1ヶ月、入学式と学校からのプリントを見ただけでこれらの点に気付いたぐらいなので、実際はもっとあるのではないかと心配しています。

もちろん、これらは表面化した問題の一部だというだけで、本質ではありません。

これらの性別による区分けを解決しつつ、「生徒を一人の個人としてみる」前に男女のカテゴリーに分けてしまう考え方の癖を、大人が解消していかなければ本質の解決になりません。

小さなことの積み重ねが、生徒の意識を「個人としての私」から「男(女)というカテゴリーの中の私」に変えていってしまい行動を制限するようになります。

また、男女間の不要な対立を生みかねません。

ちなみに、女子に対して丁寧に、男子は厳しく鍛える・呼び捨てにするなども立派な男女差別です。

こうした扱いをされた男子が大人になったときに、ジェンダー問題に積極的に取り組めるでしょうか?

「女ばかり優遇されてずるい。」という意識を育てるだけです。

もし、男子は厳しく鍛えるべきという考えが残っているようでしたら、ぜひ長期的な視点に立って考え直してほしいと思います。

中学校もユネスコスクールに加盟しているとのことですが、正直なところ、こうしたジェンダー問題の再生産をしてしまう体制のままでユネスコスクールとして相応しいのか疑問に感じています。

言うまでもないことですが、中学校のこうした現状は現場の先生方の問題と考えることはできません。首長と教育委員会と校長先生の仕事だと理解しています。

なぜ小学校は変革を実行できたのに、中学校はその意識さえ持てなかったのか。

それはおそらく、何か意見を言うと内申に響くのではという保護者や生徒の恐れがあるという事。

また、中学校は小学校に比べて学校公開などの取り組みが少なく、保護者にも地域にも閉ざされている印象です。

保護者側は遠慮し、学校側はフィードバックを得る機会を作らない。

いくつもの要因が重なって、中学校側の気付きの機会が奪われている現状があるのではないでしょうか。

 

次世代のための魅力ある教育体制があれば、自治体には子育て世代が集まります。

保育園をがんばって作っても学校に魅力が無い。

それでは未就学児の時だけ自治体に住んで、小中学校で他の自治体に移られてしまいます。

 

学校改革は自治体の将来にも大きく貢献することだと思います。

自治体の教育を受けさせたいから自治体に住む、という積極的な選択ができる学校作りをぜひお願いします。

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回答

名簿の取扱いや制服に関するきまり、給食等の当番活動については、各中学校の学校経営方針に基づき、規定されていると聞いております。

また、これらは、教育的な意味・意義はもとより、教育活動が円滑に進められるように規定しているとも聞いております。

例えば、保健体育科の授業において、男女別に指導・評価を行っていることや都立高等学校など男女別に募集人員を定めていることなどの理由により、

中学校では、便宜上、男女別名簿を活用していると聞いております。

その上で、男女が互いの違いを認めつつ、個人として尊重される男女平等教育の一層の推進を教育委員会に指示しました。

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